料亭金勇は、初代金谷勇助(かねや ゆうすけ)氏が明治23(1890)年に創業。木都能代を象徴する建物で、県内屈指の料亭として各種宴会や接待、婚礼などに広く使われた。現在の建物は、昭和12(1937)年 2代目金谷勇助氏によって建てられた。平成10(1998)年10月26日に国登録有形文化財に登録された。その後、平成20(2008)年8月末に閉店。翌21年に能代市に寄贈された。
能代市が寄付を受けた理由
・天然秋田杉の良さを十分に活かし、文化財に登録されたもので、同様の再建築は不可能な貴重な建物であること
・木都能代の発信基地として担える建物であること
以上の点が評価された。
木都能代
能代は米代川の河口に発達した街である。
米代川が交通の役目を果たし、上流の北鹿地域の金銀銅、木材などの資源や米を中心とした農作物などが集まり、南下して交易の場として栄えた。
中でも注目されたのが「秋田杉」で、秀吉の求めで桧山城主安東実季(さねすえ)が大安宅船(おおあたけぶね)で一隻分の大割板を送ったのが文禄2年(1593)。伏見城にも使われ「秋田杉」の名声は京都・大阪方面から広まったようである。
明治中期には、井坂直幹(なおもと)が機械製材を導入し、それまでの手加工に比べ生産量は飛躍的に伸びた。これが秋田木材株式会社へ発展し、以来能代は東洋一の「木都」と呼ばれるようになった。
金勇で使われている材料について
天然秋田杉は仁鮒国有林(金山)から切り出され、人力、森林軌道、筏を使って能代まで運ばれた。
能代市内は道が狭く、家を傷つけたり場所によっては家の一部を取り壊して運ばれた。持ってきた天然秋田杉はいい物を使い、残ったものは秋田木材株式会社が買い取った。
天然秋田杉以外では、杉・松・エゾマツ・アカマツ・ベイマツ・ヒバ・ケヤキ・カエデ・サクラ・キハダなどが使用されている。その他の足りない材料は秋木や昭和木材にあったものを使用し、東京の篠田銘木店からも買い付けていた。
贅を尽くした使い方ではなく、選木した良材を有効的に使用していること、建物内に四方柾の柱が1本のみしかないことから、与えられた素材を無駄なく製材したことが窺える。
旧料亭金勇の歩み
明治23年 (1890年) |
初代金谷勇助、柳町に貸座敷の開運楼を創業 |
明治26年 (1893年) |
4月 政談演説の場として現在地に山本倶楽部を建築 他に劇場の米代座、能代公園の和洋料理 紫明館(昭和7年焼失)を経営 |
明治38年 (1905年) |
12月 柳町に火事があり開運楼が全焼 |
明治39年 (1906年) |
9月 開運楼を再建し金勇楼と称した |
明治45年 (1912年) |
7月 柳町に再度火事があり金勇楼が全焼 再建後、山本俱楽部別館と称した |
昭和12年 (1937年) |
2代目金谷勇助、山本倶楽部を解体し金勇倶楽部として建て替え 8月着工 9月上棟式 11月10日竣工 大工45人、人夫20人を常用 |
昭和26年 (1951年) |
料亭金勇へ名称を変更 |
昭和32年 (1957年) |
10月 別館解体に伴い玄関を改築し厨房を増築 舞台を改修し空調を取付 |
昭和45年 (1970年) |
大広間舞台の緞帳を新調 |
昭和54年 (1979年) |
上げ汐の間、曙の間などを増築 |
昭和58年 (1983年) |
日本海中部地震により一部損壊 大広間の照明などを改修 |
平成10年 (1998年) |
10月 国登録有形文化財に登録 |
平成20年 (2008年) |
8月 料亭金勇閉店 |
平成21年 (2009年) |
3月 4代目当主、能代市へ土地建物を寄贈 |
平成25年 (2013年) |
増築部分を解体し耐震補強工事 12月 観光交流施設「能代市旧料亭金勇」として開館 |